「禅語ブログ『日々是好日』」vol.73「『無念無想』の罠」

1月 15日, 2022 更新 アーカイブ, 禅語ブログ

こんにちは、島津です。

今日はアカデミー修了生
禅メソッドマスター伊藤輝幸さんの
ブログをお届けします。

。。。。。

「無念無想」
(むねんむそう)

坐禅を始めると、
よく耳にする言葉で

雑念がなくなっている状態のこと、を
いいます。

坐禅すると
無念無想になるのだ!

私もそうでしたが、
坐禅を始めたころ、
このイメージを
強く持っていました。

“無”にならねば、とか、
“雑念”は消さねば、とか。

なので、
一所懸命に“雑念”を消そうと、
必死になっていました。

消そう、消そう、
とすればするほど、
“雑念”が膨らんでいきます。

そもそも、
消そうという思い
それ自体が“雑念”です。

「無念無想」を意識するあまり、

“雑念”が“雑念”を産み出す
負のループに陥るのです。

これが
「無念無想」の罠です。

人間たるもの、
考える動物であり、
“雑念”をなくすなどできません。

お寺の修行僧ならまだしも、
普通の生活を続けていて
雑念がないはずがありません。

ある時、師匠から、
こんな話をいただきました。

「雑念は湧いてくるもの。

 それを止めようとすると
 抵抗する力が働き、
 かえって雑念が湧いてくる。

 雑念が湧いてくる様子を
 ただ観察していればよい。

 観察していると
 静まってくるから。」と。

よしやってみよう!と
やってみましたが、
うまくできませんでした。

どうしても
湧いてきた“雑念”を追っかけて
いつのまにか“考えている”
自分がいる、のです。

ただ見つめることの
難しさを感じながら
苦慮することもありました。

そんなとき、また、師匠から
こんな話をいただきました。

「雑念が次から次へと
 湧いてくるならば、

 いっそのこと
 そのことについて
 考え尽くしてみると良い。」と。

その言葉で、
身心の余計な力が
抜けたように感じています。

それ以来、

心のあるがままに、
“雑念”が湧いてくる様子を、

聞こえるがままに、
“音”が聞こえてくる様子を、

匂うがままに、
“香”が漂ってくる様子を

観察できるようになった気がします。

ただあるがままに坐る…。

それが、
本来の「無念無想」かもしれません。

Zenjoy!

禅メソッドマスター
原田 将嗣